●当店の歴史
昭和14年頃の小田急相模原店
当店はもともとフィルムを研究していました。
初代社長 小島 蓮太郎、二代目 小嶋 一也、三代目 小嶋 聡

国産フィルムのはじまりと
   マリー写真館初代代表小島蓮太郎


写真フィルムは、イーストマンコダック社発売の「ベス単」とともに、その使用が爆発的に増えて、それが流行し始める頃、日本でもフィルム国産化のきざしが現れました。

大正6年頃 小島正治(小島蓮太郎の妻の兄)と小島蓮太郎が協力し東京府下渋谷(現在の恵比寿)に小工場を建てて写真乳剤研究を始めました。二人はふとした機会に六桜社の江藤春樹を知り、協力してもらいセルロイドに写真乳剤を塗布した写真フィルムの製造を試みました。
当時は乾板というガラスに乳剤を塗布した物しか無く、セルロイドにする事によりロールフィルムが実現出来るようになりました。
しかしこの製造実験は上手く行きませんでしたが、これが日本における写真フィルムの研究のスタートと言われております。

小島正治
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大正10年頃 坂口某とSK社を設立。
大正12年 小島蓮太郎は独立し写真館を恵比寿駅前にオープン
大正14年10月 小島正治は氷砂糖業を営む堀内勝次郎と知り合い、浜松市に旭日写真工業(株)を設立しました。社長は堀内勝次郎、技師長として小島正治が就任し、まず印画紙の製造に取り組みました。
昭和元年10月 人像用印画紙「菊印A」を近江屋写真用品(株)と上田写真機店を通じて発売しました。
昭和2年3月 「錦」、4月「春日」、「若葉」を発表。当時オリエンタル写真工業(株)が独占している国産印画紙市場にくさびを打ち込んだと言われております。この「錦」以降の印画紙は全て近江屋写真用品(株)での発売になりました。
昭和3年2月 近江屋写真用品(株)の期待通り日本初の写真フィルム「菊フィルム」が”祖国写真界を照らす新しき太陽“として生まれました。
昭和4年 パックフィルム、ASKプロセスフィルム発売。
昭和5年 トキワフィルム、ASKエツキスレーフィルム発売。
昭和8年 8月20日 小島正治死亡。
昭和9年 トキワハイクローム9.5ミリフィルム、菊パンクロフィルム発売。
昭和11年 菊Aクロームフィルム発売。
昭和14年 ヒノマル8ミリシネフィルム、ラグハスペシャルクローム16ミリフィルム、菊UFフィルム発売。
昭和18年 レントゲン間接撮影用フィルム発売。
昭和19年 時局の要請によって解散。

マリーの歴史 昭和15年頃の町田店
大正12年10月 小島蓮太郎がSK社から独立し、恵比寿駅前に写真店開業
昭和4年11月 蓮太郎妻が中野駅前にマリー美粧院開業(東京市中野区打越町25番地)
蓮太郎は恵比寿駅前の写真店を閉店し、陸軍御用商人となり、マリー美粧院内に作業場を開設。その為写真業務にも写真屋マリーが定着した。
数年後 写真業務をメインにする為美粧院閉店。改装後マリー写真館としてスタート。
昭和13年3月 マリー写真館2号店を小田急線小田急相模原駅前に開店
(神奈川県高座郡座間町2800番地)
昭和14年12月 マリー写真館3号店を小田急線町田駅前に開店(現在地)
昭和20年2月 戦争激化の為小田急相模原店閉店。中野店は知人に譲渡。
昭和42年6月 小島蓮太郎病で倒れ息子の小嶋一也が代表に就任。
昭和47年12月 新社屋完成
昭和50年2月 小島蓮太郎死亡
法人化の為社名を「有限会社マリー写真館」とし、代表取締役社長に小嶋一也就任
平成11年6月 光岡自動車マイクロカー販売特約店開始
上記業務開始に伴い有限会社マリー写真館内に自動車部門アウトガレリアマりー開設
平成12年11月 写真館一角にアルファロメオをメインとしたギャラリー&グッズショップ開店
平成16年10月 三代目代表取締役社長に一也の息子小嶋聡就任